会社沿革

タワー不動産株式会社の創業は、古賀市における長崎本家の総領 丈次郎翁(じょうじろう 弘化2年1845~1927年)が現在の古賀市(JR古賀駅の西部)において絹糸・油・蝋・酒・醤油・味噌を製造販売したことから始まりました。その事業のなかで絹糸事業を嗣子 重三郎(じゅうざぶろう1833年~1948年)へ引き継がれていくことになります。
 

大正5年頃 右手奥の建物が古賀駅旧舎
長崎重三郎 (右手前列桶を持った人物)
 

その後、戦中戦後の食糧難時代に一三(かずみ1902年~1976年)重一(しげかず1937年~2012年)現代表取締役:浩一(こういち1963年~)三代が食品製造販売(特に乾麺の製造販売)とともに、古賀市を中心に不動産賃貸業を行い現在にいたりました。

弊社は、この創業の地「古賀市」で一世紀を超える激動のなかで、さまざまな変節がありました。しかし一貫して変わらないものがあります。
それは「犬鳴山脈と白砂青松の美しい自然に育まれ、郷土を愛し、世紀を超えるふれあいを大切に育んできた」ということ。
私達はこの精神を忘れず、役職員一同社業に専念してゆきたいと思っております。

 
 

長崎家本家の系譜

古賀市における長崎本家は、元亀年間(1570年~1573年)に福岡入りした説と豊臣秀吉による九州征伐(1586年~1587年)の折 福岡入りした説があります。元亀年間までさかのぼれば、長崎家は古賀市に移住して450年程になるようです。
当時は、激動の戦乱期であったため糟屋郡席内村に着任後すぐに玄海灘を見渡せる鹿部山に山城を築いたそうです。当時は鹿部山近くまで海だったこと、また海上交通が主流の時代でもあり、鹿部山から海を監視する役目も担っていたようです。鹿部山に鎮守されている古賀神社の本宮である皇石神社(皇石宮)は、長崎家一族が四百年以上もの長い間お祀りし、今でもその山頂一帯を長崎家一族が所有しています。
令和3年5月、皇石神社 宮司のご要望より古賀市重要文化財である皇石神社社殿修復工事をタワー不動産グループにて寄進させていただきました。

国内戦乱期が一旦終息し、豊臣秀吉が朝鮮への出征する文禄・慶長の役を表明した時、我々一族は他国に攻め入る義は、なしとして山城から一族と共に野に下ったそうだ。
下野してまずは、武家として長崎家の菩提所として一花山 称善寺を建立。当初は古賀市天神1丁目22番10号 現在の古賀市南区公民館の地に建立されていた。
それが現在の古賀市の街並みを形成するスタートだったのだそうだ。

その後徳川の御代になり 名字帯刀を許された裏粕屋地区の大庄屋を代々務めてきました。福岡藩御用の際は、 前日に糟屋郡箱崎村の長崎町(当時長崎家の別邸があった町)に入り、正装に着替え舞鶴城へ参内していたそうです。
江戸期は、長崎家一族において絹糸・油・蝋・酒・醤油・味噌等を製造後、大阪に搬送 販売し栄えていたそうです。
しかし詳細な記録については長崎家本家及び当家菩提寺である称善寺が明治初期に同時期に火災があったため消失してしまいました。

長崎本家は、絹糸を主要産業からスタートし食品製造販売、不動産賃貸業を通して現在に至り。初代分家であった木屋長崎家は、代々与八郎を襲名し大庄屋を代々務めてきた傍ら菜種油を主要産業として蝋・酒を製造し、大阪に搬送 販売し栄えていたそうです。現在も木屋家の末裔が大阪に在住されています。
木屋長崎家は、明治初期にはめずらしく高層の木造3階建住宅で玄界灘が一望できる鐘楼堂のある荘厳な建物だったそうです。そのため明治二十八年 北白川宮能久親王が日清戦争後、台湾守備の命を受け台湾出征へされる時、木屋長崎家に御宿泊所を賜ったそうです。その時の一行には明治政府が招聘したドイツ帝国陸軍のクレメンス・ウイルヘルム・ヤコブ・メッケル 通称:メッケル将軍も同行れていたそうです。  
また木屋長崎家は、苦学生に学費を送り続けるなど五十人以上もの大学生を排出させ政財界に送り込んだエピソード等もある。

現在、春の彼岸中日(3月20日)には、古賀市にあります長崎家の菩提寺 西山浄土宗 一花山 称善寺にて長崎家一族 十二家の先祖祭りがとりおこなわれております。その後の親睦会では本家分家持ち回りで、「鶏すき焼きと酒」をふるまうのが慣例になっております。
また平成28年9月28日には長崎本家 四代目 市右衛門翁 参百年御忌法要も行われました。

※長崎家の系譜については、本家の文書・伝承及び写真、菩提寺であった称善寺ご住職 故城井一孝様、元古賀中学校校長 古賀市文化財調査委員であった故長崎初男先生、大阪木屋長崎家の末裔から数日にわたりお話を拝聴させていただきまとめたものであります。


 

                   

長崎家の紅梅
長崎本家の紅梅
明治10年建築され